Foyer2 (jp)

日本のみなさん、マックスが来たよ

2006年八月18日付“SZ-Magazin”第33号より

20年代のベルリンで生まれた“Mein kleiner grüner Kaktus / 僕の小さい緑のサボテン”など、歌謡曲の古典を歌うマックス・ラーベ ― そんな彼はドイツより外国で大きな成功を収めている。彼を最も敬うのはマリリン・マンソン、ラトビア国民、そして無数の日本人である。東京でそのツアーを追った。
いや、自分は決してドイツ文化の大使というわけではないと、マックス・ラーベは真っ先に否定する。それはあまりに崇高で、ごたいそうな表現だという。そもそも、外国でコンサートをするのも、気分転換が本来の趣旨らしい。春先、永くて暗いベルリンの冬に嫌気が差してくる頃、人々はすでに路上のカフェが賑わうイタリア、ローマへ出向くのである。そうして、ちょっとした外国ツアーから戻ると、ドイツのお客さんの前で演奏するのが、ことさら楽しくなっている。地元の人々は、どんな小さな洒落、わずかな含みやニュアンスも、もらさず敏感に受け取ってくれるのだ。
文化大使マックス・ラーベ ― 本人は否定しても、海外でこれほどの知名度を誇る、ポップカルチャーのアーティストは今も昔、決して数は多くない。ざっと浮かぶのはラムシュタイン。ネーナ。スコーピオンズ。ウテ・レンパー。ディー・トーテン・ホーゼン。アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン。クラフトヴェルク。あとテクノのDJが一人か二人。そして、20年代のベルリンで生まれた歌謡曲の古典を歌う、マックス・ラーベとパラスト・オーケストラ。なんとも奇妙なラインナップである。
ラーベは去年、ニューヨークのカーネギーホールで公演を果たした。アーティストとしてはこれ異常ない、頂点ともいえる快挙だ。3ホールあるうちの真ん中の大きさの会場、600人収容のザンケル・ホールだったと、ラーベは謙遜する。とはいえ、来年もすでに招待ずみ。今度は一番大きなメインホールが待っている。パラスト・オーケストラは、以前モスクワでもステージに立っている。ロックンロールの超定番誌、ローリング・ストーンがロシア支社を開設。そのオープニングパーティーのBGMに抜擢されたのが、なんとラーベだったのだ。彼が最近のポップソングを二十年代風にアレンジしたアルバムは、ラトビアでアルバムチャート一位に躍り出た。また去年、ラーベはアイルランドのグルティーン城で行われた、マリリン・マンソンとダンサーのディタ・フォン・ティースの間の結婚式で歌っている。常にホラー映画のようないでたちのロックミュージシャン、マンソンは、いつでもぱりっとした身なりのマックス・ラーベのファンなのだ。そして今度は日本ツアー。その後、さらに中国も回る予定だ。
大阪から東京へ、時速290キロですべるように走る新幹線。その車窓を、水田、住宅街、ショッピングセンターが、飛ぶように通り過ぎてゆく。巨大な鳥かごのような打ちっぱなしゴルフ ― 「面白いね。そう思いませんか?」。ラーベはこの国が、その繊細な美意識と静かなユーモアがお気に入りだ。靴を脱ぎ、先日日本人にプレゼントされた靴下を見せてくれる。手袋のように、指の一本一本が包まれている。「足の指もそれぞれ心を持っているからね」隣の女性がつついている駅弁の、赤と金の紙箱にすら興味を惹かれる。
アジアは一つの冒険だった。これ以上遠くへ行くことも、これ以上かけ離れた文化に触れることも、簡単ではない。それだけに、パラスト・オーケストラ11人の男性メンバーと一人の女性ミュージシャンは緊張していた。日本の聴衆はいったい、その音楽を理解できるのだろうか、それどころか、拍手はしてもらえるのだろうか。開演前は何事も心配だった。何しろ日本人といえば、大変控えめだという評判なのだから。ところがどっこい。終わってみれば、絶えない拍手と幸せそうな人々の表情。ある老婦人はテレビカメラを向けられ、「全身で音楽を感じました。明日から生まれ変わりそう」と感想を語れば、またある僧侶は“シンギング・イン・ザ・レイン”で若りし日々の思い出に浸っていた。あるニュース番組のキャスターにいたっては、ラーベの洗練された演出は、伝統的な歌舞伎や能に似ているとか。「ラーベの芸術を最も理解できるのは、もしかすると我々日本人かもしれません」。国営テレビの音楽担当は公演後、パラスト・オーケストラの出演にゴールデンタイムを用意したと、嬉しそうにはにかんでいた。
 この海外での成功も、ラーベの努力の賜物である。曲の間のトークを大切にする彼は完璧主義者。「私はどんな表現も、偶然に任せたりはしない」。今回のナレーションも、全て日本語に訳してある。ラーベはそれを淀みなく読み上げるどころか、的確なニュアンスで、笑いさえ正しいタイミングでとってしまう。さらにオーケストラは、日本の曲を準備してきた。40年代に生まれた“白い船”である。そのメロディーが流れ出すと観客はまず驚き、続いては大いに感心する。ラーベは、その声を聴衆の心に響かせる術を知っているのだ。
翌日、大阪へ向かう新幹線の中、ラーベは日本ツアーの快調なすべり出しにご機嫌。パラスト・オーケストラのステージに、クラフトヴェルクを彷彿させられたという、日本の文化番組のアナウンサーの話をする。80年代の冷徹なエレクトロニック・サウンドと20年代の小粋な歌謡曲 ― そんな違いにも関わらず、この比較は決しておかしくはない。デュッセルドルフ生まれのクラフトヴェルクも、その芸に関しては同じように復古的なのだ。そのステージも、時と共に大きくは変わらない。唯一、技術的な完成度が増していくだけなのだ。その完璧さの追求は、パラスト・オーケストラのレパートリーにも現れている。「このように無駄を省いた演出は、私のスタイルとして発見し、磨いてきた」と、ラーベ。ステージ上で動き過ぎないことが、好評判を呼んだのだそうだ。今はグランドピアに軽くもたれかかっているが、昔のコンサートでは、いすに腰掛けて出番を待っていたほど。彼が本番中全てを仕切っていると思う人は、良い意味で裏切られる。ラーベはオーケストラに空間を与える。随所で先頭から退き、間を取ることを心がける。そう、ラーベは“歌わない”ことの名人なのだ。
少年時代、教会のミサで侍者を勤めた経験のあるラーベは、ステージ上で演じる、厳正で均整の取れたショーのインスピレーションを、まさに天から得ている。「カトリック教会ほど、演出に長けている集団はない。多くのものを学ばせてもらった」。それから、細部までに及ぶディテール愛。「僕が機材を広げると、よそのグループは皆驚くんです」と、オーケストラの音声技師は自慢げに話す。「うちのマイクはノイマン製。ローリング・ストーンズとローマ法王御用達なんです」。ボーカルマイクの開発に当たっては、メーカーと協力したという。昔風のデザインを実現するために、ポップガードを内蔵しているのだ。
時が経つと共に、ステージで着る衣装も完成度を増していった。「始めの頃、C&Aでタキシードを買っていました」と、メンバーの一人は振り返る。「でも、舞台の照明の反射の具合がばらばらなんです」現在は、ベルリン・シャルロッテンブルグ区の紳士服店、ギュンター・アダムに、全員分の衣装をオーダーメイドで発注している。そのスタイルはもちろん、二十年代風。スラックスのウェストはへそより上、シャツのボタンはシルバーで、襟とカフスは取り外し式。当然、胸当てもついている。唯一革靴だけは、一人一人のメンバーがその好みを貫いている。「いつかラスベガスで公演するとしたら、絶対にエナメルのウェスタンブーツを買ってやる!」と息巻く者も。
 この集団と旅をするのは、楽しい。なんだか、巡業サーカスのように賑やかである。それも、結成当時は大学生同士の同好会。ラーベはバリトンの学生で、ミュージシャン達の専門は経済学や宇宙航学だった。現在は全員、プロのミュージシャン、お互いパートナーとしてオーケストラを運営している。ラーベは、同僚中の第一人者なのだ。経営責任は、3人のメンバーが請け負っている。「私達の活動は非常にドイツ的で、ステレオタイプに当てはまる。そこに、予期せぬ自嘲とユーモアを混ぜているんです」と、ラーベ。その内容は、ワイマール共和国時代末期の音楽。当時、ドイツはポピュラー文化の最先端、ベルリンは地球一の不夜城として、世間に名を馳せていた。そんな音楽だから、現在も世界中で知られている。それだけに、輸出物としては素晴しく適しているのだ。そして、既に古いからこそ、時代遅れにはならない。流行に流されることがないのが、何よりもの長所である。八月27日に、パラスト・オーケストラはベルリンのヴァルトビューネ劇場で記念コンサートを開く。結成から二十年 ― その間、メンバーには同じ数だけの子供が生まれている。流行り廃りを逸脱した音楽は、将来的な安定を約束してくれるのだ。
先だって、ラーベはマリリン・マンソンと共に、ヴォーグ誌のインタビューに応えている。二人の共通点を訊かれると、矢のように「無い!」と帰ってくる。二人ともソウル・ミュージックの古典、“Tainted Love ”やクルト・ヴァイルの“Alabama Song”のニューアレンジを手がけ、非常に独創的な結果を生み出している。そしてこの二人、ステージ上で演じるキャラクターから、私生活でも抜け出せなくなる危険が付きまとっている。多少、思い当たる節はあると、ラーベは言う。「そう思いません?」と、本気で訊いてくる。そんな瞬間、制御の及ばない、別の自分を創りあげてしまったという不安が顔をのぞかせる。それを拭い去るように、彼は高校時代の友人の話をする。彼らは、ラーベは昔からこんなだったと証言するのだそうだ。
ラーベのシャツの胸からは、必ずハンカチが覗き、スラックスの裾は地上7センチきっかり。それは43歳の彼に、なにかしら少年的な趣をもたらしている。ハインツ・リューマンの映画“フォイアーツァンゲンボーレ”から飛び出してきたような、永遠の高等学生なのだ。「本当に若者らしい時期は、私には無かった。だから、本当に老けることも無い」。ラーベは古典的な言葉遣いを好み、その過剰なまでのマナーの良さは、躾の良さを感じさせる。ヴェストファーレン地方の農場で過ごした少年時代、友達と口笛の高さを競って遊んだという。より高い音を出したほうが、勝ちなのだ。本人は頑なに否定するが、そんな彼を見ていると、20年代からタイムスリップしてきたに違いないと、推測せざるを得ない。
マックス・ラーベと関わると、ある、非常にプライベートは疑問が頭をよぎる。鼻にかかった歌声に卓越したファルセット、その繊細でフェミニンなたたずまい。時折ガソリンスタンドで買っているビールを、一緒に飲む女性はいるのですか? ― ブンテ誌の記者が、あつかましい質問をさらりと訊ねてくれた。ラーベは、はい、ガールフレンドはいると答える。そして、いいえ、彼女との間に公を持ち込みたくないので、その話はしない、と。決して歌で彼女を口説いたわけではないそうだ。それどころか、家で唄うことは厳禁なのだ。ラーベの生活は、微妙なニュアンスの中で流れている。物静かな彼はでしゃばらず、どちらかというと物事を脇から見守ることを好む。スターのように傲慢な態度は決して取らない。待ちに待った東京公演の日、会場へ向かったのはリムジンでも、高級車でも、タクシーでもない。ラーベは地下鉄に乗っていくのである。ローレン・バカール のカラー版のように美しい、主席バイオリニストのハンネ・ベルガーは、衣装のドレスを腕から下げてホームに立つ。筆者が5分も遅刻した上に乗車駅を間違え、緻密なスケジュールを完全に狂わせてしまっても、ラーベは全く動じない。冷静沈着、落ち着き払っている。
人がある役を演じるのと、それに成り切るのとでは、微妙な違いがある。ラーベは後者である。彼の音楽を、必ずしも好きである必要は無い。こってりとした歌謡曲に虫唾が走るのも結構。しかし、その愛情、その繊細さの込もったシンフォニーには、驚かされる。ラーベは風刺するのではなく、洗練するのである。曲の素材は、フリーマーケットで探し当てる古いシェラック製レコードや譜面。UFAの映像資料館には古い映画音楽が、クルト・ヴァイル資料館にもまだ見ぬ名作が眠っている。ダンス・オーケストラに合わない曲は、専門の編曲者がパラスト・オーケストラ用に書き直している。こうした積み重ねで、堂々たるディスコグラフィーが発表されている。ちょうど21枚のアルバムと、400曲以上のレパートリー。音楽の新たな古典ジャンルの、旗奉行的存在であるラーベは、じきにその誕生の100周年に立ち会おうとしている。
彼の芸を復古的と非難するのは、ベートーベンを奏でる交響楽団の場合と同じく、ナンセンスだ。ラーベの音楽をきくこと、それは手入れの行き届いたクラシックカーを運転するようなものである。本来あるはずの、がたがたぎしぎし、ブリキのような古めかしい雑音は、どこからも聞こえてこない。ラーベが発掘する曲は、傷だらけでぼろぼろの、黄ばんだモノクロ写真。彼はそのしわを伸ばし、しみを取り、色彩を加えてゆくのだ。すると、無声映画がカラーステレオに変わったがごとく、音楽がぱっと輝きだし、生命が吹き込まれる。人々は、それに魅了されるのだ。
「声がほぼかすんで、わずかな糸として残るほど」に、ラーベは声量を抑えて唄うことを好む。オーケストラのほうも、驚くほど控えめに演奏することがある。騒と静、その間に拡がる空間に、特別な魅力が隠されている。「曲に合うときには、大きな声や、ちょっとうなるような発音も好きですよ。“Amalie geht mit ’m Gummi-Kavalier ins Bad / アマーリエはゴムの男を連れて泳ぎに行く”とか、面白おかしい歌詞の場合は特にね。全体の響きが和むんです。ズンッタ、ズンッタ。スウィングではなく、揺り弾むような感じですね。私達はスウィングバンドではなく、ぴょこぴょこオーケストラみたいな。」
ソリストのラーベと、12人のミュージシャンは、素晴しく息が合っている。稽古中、音楽監督のミヒャエル・エンデルスは歌謡曲“Das gibt’s nur einmal / 一度きり”を分解して、ダンス曲からオーケストラものへと作り変える。 管楽隊へ一つ、二つ身振りでサインを送り、グランドピアノとバイオリニストには指示を一言。譜面にもいくつかのメモを記す。あまりに素早い作業に、無知な観客には何が起こっているのか、理解できない。そして、アレンジしたばかりの曲を、通しでリハーサルしないだけの自信。本番になれば大丈夫、だそうだ。
1931年の映画「会議は踊る」の曲は、日本では有名らしく、プログラムに組み込まれた。しかし、ドイツ文化の何を世に持ち出すか、ラーベは細心の注意を払わなければならない。例えば米国遠征のとき、ワイマール共和国時代の曲のみを厳選した。少しでも戦時の匂いがしてはならなかったのだ。にもかかわらず、ミスショットも過去にはあった。例えば、サッカーワールドカップを前に、俳優ハイノ・フェルヒとペーター・ローマイヤーと共に録音した“Schieß den Ball ins Tor / ゴールにボールをシュートしろ”。そのビデオには、ドイツ20年代の“大国だった”感と、50年代の“大国の仲間入り”的な態度が入り交じっている。結果として、そんな雰囲気のどこか中間が、映像表現として現れている。それは好みが分かれるし、国によっては全くご法度の場合もあるのだ。
そんな文化の輸出も、ともかく日本の場合は成功した。その響きは、メード・イン・ジャーマニーの頑強さを持ち、ノスタルジーと哀愁、一種のベークライト・フィーリングの混ざったものを残していった。一方中国では、見知らぬドイツの楽器に注目が集まった。そしてラーベもカルチャーショックにさらされることとなる。コンサートの本番中、子供達が会場を駆け回り、聴衆は曲の最中に拍手したり、カメラのシャッターを切る。中国語の小船の唱が始まると、数百人が携帯電話を取り出し、回線の向こう側の家族にその響きを聞かせていた。そして公演が終わると、人々はいっせいにステージに駆け上がる。常に平静を保ち、秩序と節度が第一のラーベ氏も、さすがに笑顔がこぼれ、人ごみに身を任せた。—————————
この日本の観賞魚のように、マックス・ラーベが何かに感心を覚えると、左の眉がつり上がる。

初めてアジアに接するマックス・ラーベ。来年も再び、日本ツアーが行われる。

13人のドイツ人とコントラバス…マックス・ラーベの古典歌謡曲は、中国でも大人気。

 

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